江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。
また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。
江戸御徒町生まれの幕臣。幕府留学生としてオランダへ3年留学。戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、蝦夷地を占領し『蝦夷共和国』を樹立して総裁になるが、明治2年、函館戦争で降伏。 その後、北海道開拓使に任官するなど、新政府でも活躍。
※地産地消=地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物を地域で消費しようとする活動を通じて、農業者と消費者を結びつける取り組み。
東京牛乳は東京都酪農業協同組合と多摩地区の酪農家及び協同乳業で共同開発した産地指定牛乳です。
製造工場 協同乳業㈱東京工場(東京都西多摩郡日の出町平井20-1)
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